南太平洋の孤島に立ち並ぶ、巨大な石像「モアイ像」。
誰が、いつ、何のために、これほどの像をつくったのか──
この問いは、世界中の研究者や探検家、そして子どもたちの好奇心を刺激し続けてきました。
この記事では、最新の考古学研究や現地文化の記録をもとに、モアイ像の起源と目的に迫ります。
モアイ像を作ったのは、誰?
モアイ像をつくったのは、ラパ・ヌイの人々と呼ばれるポリネシア系の民族です。
彼らは、カヌーで太平洋を航海してイースター島(ラパ・ヌイ)にたどり着いたとされ、島で独自の社会と文化を築きました。

この島に人が住みはじめたのは、西暦800〜1000年ごろだと考えられています。
大きな船で海を渡り、火山島に根を下ろした彼らは、限られた資源の中で集団生活を始め、やがてモアイ像の建造に至りました。
いつ作られたのか?
モアイ像が実際に作られた時期は、およそ1000年〜1600年ごろ。
最盛期には島のあちこちにモアイ像が建てられ、現在でも約900体以上が確認されています。
その多くが、火山でできた柔らかい石「凝灰岩(ぎょうかいがん)」を削って作られ、海岸線近くの「アフ(石の台座)」に立てられました。
詳しい場所や構造については、以下の記事もご参照ください。
▶︎ モアイ像はどこにあるの?地球のはしっこ“イースター島”の秘密
なぜモアイ像を作ったのか?
モアイ像は、祖先の霊を象徴する存在として作られたと考えられています。
ラパ・ヌイの人々にとって、亡くなった家族や偉大な人物の魂は、今を生きる人々を守ってくれると信じられていました。

その“見守る存在”として、村に向かって立てられたのがモアイ像なのです。
像の多くは、海に背を向け、村の方向を見つめるように配置されています。
これは、単なる装飾ではなく、「祖先とともに暮らす」文化の表れです。
モアイ像の意味については、以下の記事でより詳しく解説しています。
▶︎ なぜモアイ像は作られたのか?その意味と目的をわかりやすく解説
モアイ像はどうやって作られたの?
モアイ像は、ラノ・ララクという火山のふもとで石を削って作られました。
完成した像は、そこから島中へと運ばれ、立てられたのです。
驚くべきは、高さ10メートルを超え、重さ80トン以上の像を、人力だけで運んだということ。
その運搬方法については、現代の実験で「歩くように揺らして移動させた」説が有力になっています。
詳しくは、以下の記事で解説しています。
▶︎ モアイ像はどうやって運ばれた?“歩いた石像”の謎に迫る
なぜ作られなくなったのか?
17世紀ごろになると、モアイ像の建造は急激に止まり、すでに立てられていた像も次々と倒されていったといわれています。
その背景には、以下のような社会的・環境的な要因があったと考えられています。
- 木の伐採による資源の枯渇
- 土地や食料をめぐる部族間の争い
- 外部との接触による文化の変化
中には、「モアイ像を倒すことで相手部族の力を奪う」という争いの道具になったという説もあります。
モアイ像は、ただの石像ではなく、社会の象徴そのものだったのです。
親子トークタイム!こう話してみよう
「モアイ像って、すごく昔の人が手で作ったんだって。
1000年以上も前に、船で海をこえて島にたどり着いた人たちが、石をけずって、村を守る像を建てたんだよ」
「おじいちゃんやおばあちゃんの魂が、村を見守ってくれるって信じてたんだって。
だから、モアイは村の方をじーっと見てるんだ」
「昔の人たちって、目に見えない“信じる気持ち”を、石でちゃんと形にしたんだね」
こうした会話をきっかけに、子どもたちも「歴史って、人の思いがつまってるんだ」と実感できるようになります。
まとめ
モアイ像は、イースター島に暮らしたラパ・ヌイの人々によって、1000年ほど前から作られた石像です。
祖先を敬い、村を守ってもらうという信仰心をもとに、火山岩を削って作られたモアイ像は、やがて900体以上に増えました。
それぞれが、村の方向を見つめながら静かに立ち続け、今も世界中の人々の想像と探究心を引きつけています。
「誰が」「いつ」「なぜ」──
その答えは、すべて人間の“心”に結びついているのです。
モアイ像の構造や埋まっている下半身について知りたい方は、以下もご覧ください。
▶︎ モアイ像の下半身はある?埋まっている“全身像”の真実に迫る